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ゲーム人生

我が人生はゲームとともにあり。

幸か不幸か、私は人生の成長期とゲームの発展期とが重なり合っていた。

エレメカ時代からインベーダーブーム、風営法8号営業、ファミコンブーム、キャッチャーブーム、格闘全盛時代、そして凋落。
特に10歳代から20歳代は日本で発売されたほぼ全てのゲームを見てきた。
その思い出に残るゲームを時系列に沿って紹介していこうと思う。

[〜1980][1981〜1983][1984〜1986][1987〜1990][1991〜1995][1996〜2000][2000〜]

1. ビデオゲーム黎明期 (〜1980)

「ビデオゲーム」。
人類がその文化を生み出してからおよそ半世紀。
その偉大なる歴史をほんの少し語ってみよう。

1970年代、まだ商用ビデオゲームは誕生したばかりであまり普及はしてなかった。
ゲームコーナーにあったのは所謂「エレメカ」と呼ばれる機械式の遊戯具が中心であった。
その中で異彩を放っていたのがアップライト筐体で供給されていたアメリカ製のビデオゲームである。
Atariの「ポン」(1972)やExidyの「サーカス」(1977)、TAITOが輸入していた「ガンファイト」(1975)など初期ではあるが、それなりにバラエティに富んだモノであった。
この頃は日本のメーカーもアメリカのゲームを真似する程度であった。
Atariの「ブレイクアウト」(1976)が流行れば、各社追従してブロック崩しタイプのゲームを業務用、家庭用問わずにリリースしていた。

元々TAITOやSEGAは海外ゲーム機の輸入・販売や「ジュークボックス」などの販売から始まっていた。
(その流れでピンボールも輸入されていて、WilliamsはTAITO、Bally-MidwayはSEGAといったような感じであった)
また、namcoはデパート屋上の遊具(所謂エレメカ)からスタートしている。
なので、新しいゲーム機であるビデオゲームの輸入も自然の流れだった。

そんな状況の中、登場したのがTAITO「スペースインベーダー」(1978)である。
それまでは敵が攻めてきてそれを迎撃するという「シューティング」タイプのゲームは、ほぼなかったのである。
デプスチャージ」(1977)など敵が攻撃してくるゲームはあったが、まさに敵が「侵略(invade)」してくるこのゲームは画期的であった。
瞬く間にインベーダーゲームは日本全土を文字通り「侵略」していった。
(かく言う私も小学生ながらお年玉をかなり突っ込んだ)

この頃全国各地に「ゲームセンター」ではなく「インベーダーハウス」と呼ばれるインベーダー専門店が存在した。
また、アメリカ製では存在しなかった「テーブル筐体」を日本のメーカーが製造していたのも普及に拍車をかけた。
そのため、喫茶店などのゲームとは関係のない業種でもインベーダーが設置されていった。
(もちろん、それ以前の国産ゲーム機もテーブルがあったので、ブロック崩しなどは存在していた)
余りのブームに市中の百円硬貨が不足しただの、1日で売り上げが100万円を超えたなどの都市伝説が生まれた。
(都市伝説ではあったが、当時のゲーム機の金庫は大体10000枚くらいで満杯になってしまうので売上回収時に金庫が開かなかった、という話は実際にあった)

しかしこのブームは色々と弊害も生んだ。
まず「デッドコピー(bootleg)」である。
現在でいうところの「違法コピー」であり、インベーダー以前にも存在はしていたが、当時はプログラムという新しい概念に法律が追従しておらず違法ではなかった。
(1982年に通称「インベーダー訴訟」ともいわれる訴訟でプログラムにも著作権が認められた)
そのため、インベーダーブームで大量のコピーが作られた。
当時存在したメジャーメーカーでインベーダーコピーを作らなかったのはnamcoくらいで、あとは数社がTAITOから正式許諾を受けて生産していた。
(新日本企画[→SNK]、ジャトレ、IPM[→Irem]、ロジテック、サミー工業の5社である)
見た目を変えているのはまだ良心的な方で、そのままタイトルだけいじったものなども多数存在していた。
SEGA「インビンコ」(1979)やNintendo(「スペースフィーバー」(1979)といったように、本当に猫も杓子も作っていた。

また、別な問題として遊技場が犯罪の温床になってしまっていた。
ゲーム機や硬貨に細工をしてゲームを不正利用したり、カツアゲ(強盗)や暴力による問題である。
その影響で学生は「ゲーム禁止」という流れが生まれ、遊技場には補導員が巡回して取り締まるという状況になった。
 当時小学生だったが私は敢えて「ゲームが悪ではない」という信念で補導員と対話をしていた。
 実際、ゲームは自分のお小遣いの範囲でやっており、更に成績も上から数えた方が速い順番であったので、自信を持って言えた。
 しかし残念ながら教師に対する覚えは余りよくなかったようである(苦笑)。

更にインベーダーブーム自体が半年程度でピークを過ぎてしまい、一気に下火になってしまった。
インベーダーに続くゲームとしてnamco「ギャラクシアン」(1979)などが登場したが、ブームを再燃させるまでには至らなかった。

そんな中、登場したのがnamco「パックマン」である。
パックマンはグラフィカルなデザインとコミカルなキャラクタ、単純なルールの中にある戦略性などで日本よりも欧米で大ヒットした。
今でもアメリカでは伝説のゲームとして語られている。
初めて日本のゲームがアメリカに認められた瞬間といってもいい。
(以降しばらくは日本がゲーム業界のトップランナーとなっていった)

そしてこの頃にはインベーダーブームで余っていた機材が安く払い下げられて、所謂「駄菓子屋ゲーセン」が登場していた。
1プレー100円という、小学生には高額なレートではなく「10円〜50円」で遊べるゲームが駄菓子屋に置かれ、当時の小学生や中学生にとっての重要な遊び場となった。
インベーダーやギャラクシアン、Nichibutsu「ムーンクレスタ」「クレイジークライマー」(1980)などが遊べて、駄菓子で満たされるというまさに子供のパラダイスだった。
 当時の駄菓子屋には景品クジも沢山置いてあった。
 紐クジの飴とか番号クジのチョコレートとか、まぁ今はネットで直接買えちゃう時代だけど。
 でも駄菓子の製造メーカーさんも高齢化や後継者不足でどんどんなくなってるんだよね。
 色んな意味であの頃はもう戻ってこないんだ。
 
 そういえばこの頃はちょうどジュースが瓶から缶へと変わり始めた時代。
 瓶を店に持って行って10円もらって、そのまま駄菓子を買っていたのが懐かしい。
 当時瓶の栓裏についているゴムをめくるとお金が当たるというイベントがあった。
 でも自販機についている栓抜き使うと回収されちゃうからめくれないんだよね。
 たまたま、自販機の補充に来ていた業者さんがその栓を全部くれてめくったら500円以上儲かったことがあったのを思い出したよ。
 
 ああ、また飲みたいな、あのジャンキーな色の「ミリンダストロベリー」や「ファンタゴールデングレープ」(都市伝説だったゴールデンアップルがなぜか一時期復活?してたけど)。
 この頃にあった「ペプシ」750ml瓶って北海道と近畿ペプシコ限定だったらしいね。ちなみに130円でリターナーが30円だった。
 
 限定といえば、コカ・コーラの缶のサイズが北海道と近畿は350ml(今のと同じサイズ)で関東なんかは250ml(細いやつ)だった。
 だから青函連絡船の自販機で買えるのも、函館所属だと350mlで青森所属だと250mlだったりした。
 で、なぜか北海道と近畿限定で太さは350mlと同じで高さが小さく250mlにした「ポケット缶」なるものが売っていた時代もある(CMもあった)。

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2. ビデオゲーム過渡期 (1981〜1983)

インベーダーブームが去り、その後のゲームは世間にブームを起こすほどのものではなかった。
業界の再編があり、中小メーカーは廃業、もしくはゲーム業界から撤退するかという流れになった。

その一方でゲーム内容の多様化が発生した。
Nintendo「ドンキーコング」(1981)やKonami「フロッガー」(1981)、TAITO USA「クイックス」(1981)などといった、今までになかったタイプのゲームが登場した。

この頃からアメリカからの輸入ではなく国産のゲームが大半を占めるようになった。
大ヒット程ではなくてもロングラン作品も出始める。
namco「ギャラガ」(1981)、Alpha Denshi「ジャンピューター」(1981)、Universal「Mr.Do!」(1982)、SEGA「ペンゴ」(1982)などである。
徐々に学生やサラリーマン層を対象にしたゲームが増え始めてきた。

この時代に頭角を現したメーカーが「namco」である。
インベーダーブーム時代を乗り切ってその後の業界を支える作品を多く登場させている。
ニューラリーX」(1981)、「ディグダグ」(1982)、「マッピー」(1983)、「ポールポジション」(1982)などが代表作である。
このようなキャッチ―なゲームを続々発表して、業界をリードしていった。

そんな中1982年の暮れに発表され、1983年初頭から世に出回り始めた名作があった。
それが「ゼビウス」(1982)である。

再びシューティングが時代を造った。
しかも今までにない本格的なバックグラウンドストーリーにSFを意識した配色のキャラクタ。
子供の遊びではない「ゲーム」が誕生した。

ゼビウスのシステムは後に色々なゲームに影響を与えている。
シューティングでありながら登場キャラに名前を付けるというのも、それまではあまりなかった。
(キャラクタが重要なパックマンのようなゲームは名前があるのも多いが、シューティングだとせいぜい自機とボスくらいだった)
隠れキャラとしての「スペシャルフラグ」「ソル」の存在も大きい。
以降、業務用・家庭用問わず、隠れキャラが流行した。
ハドソンの作品などが有名であろう。

そのハドソンにも大きく関係する革命が起きた。
そう、Nintendo「ファミリーコンピュータ」(1983)の登場である。

それまでのゲーム機は単色のキャラクタが動く程度で、とても業務用と比較にはならなかった。
しかしファミコンは多色スプライトを使って業務用に近い表現力があり、しかも低価格(¥14,800)という衝撃的なゲーム機であった。

だが、まだ業務用ゲームの表現力は家庭用やパソコンを上回っており、住み分けができていた。
 個人的にはこの頃から札幌のゲーセンやマイコンショップなどに顔をちょくちょく出していた。
 祖母が札幌の真駒内にいたので、長期休暇の殆どをそこで過ごしていてうろちょろしていた。
 自転車も持ち込んでたので、それこそ真駒内から平岸あたりまでは行動範囲。
 生まれは札幌ではないのだが、まだ地下鉄南北線が「真駒内〜北24条」だった時代から札幌の街の変遷は見続けていたりする。
 (今は亡き「札幌そごう」は開店初日に行った)
 
 札幌駅も1世代前の地下改札(ちょうど今の地下鉄から北へ続く連絡通路)があったころ、よく利用していた。
 当時あった札幌駅名店街やステーションデパートも懐かしい。
 今ローソンとか宝くじ売り場があるあたりのちょっと先がちょうど地下改札で、横に立ち食いそば屋なんかがあったりしたんだよね。
 あの頃の国鉄切符売り場でお釣りを手動ではじいて取り出す機械の音や、改札の切符鋏のリズミカルな感じ、そして駅の立売さんや到着アナウンスの独特のリズムは今でも思い出す。
 鉄ちゃん程ではないが、鉄道が好きなのは多分この頃の思い出補正。

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3. ビデオゲーム発展期 (1984〜1986)

1984年、業界に震撼が走った。
「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」の改正。
所謂「風営法」の改正である。

それまで「ゲームセンター」はその営業形態において法律による規制は受けてなかった。
そのため、24時間営業の店もあり、入場できる年齢にも制限はなかった。

しかし、この改正によりゲームセンターは法律による制限を受けることになった。
一番大きかったのは営業時間の規制である。
これにより都道府県条例などである程度幅はあるものの、午前0時をもって営業終了となった。
またゲーム機の配置や照明なども届け出と公安当局により審査、承認が必要になった。
このとき、景品機などが除外されたことにより、一定面積以下であれば時間制限は受けなかった。
(ボーリング場などに設置されていたコーナーがこれにより回避されていたケースがある)
また16歳未満、18歳未満の少年の入場時間制限、景品の最高額の規制など多岐に渡る規制を受けることとなった。
法令によってゲームセンターが定義されていた号番により、通称「8号営業」と呼ばれることになる。
(現在は5号営業である)

しかし、これを奇貨としてゲーム業界のイメージアップにつなげる動きもあった。
ゲームメーカーのトップ3でもあった「TAITO」「SEGA」「namco」は全国に展開する直営店(ロケ)を持っており、そのイメージアップに努めるようになった。
それまでの「暗い、怖い」イメージのゲームセンターを「明るい、楽しい」ゲームセンターにしようとした。
家庭用ゲーム機の好調もあり、以前のような世間のゲームアレルギーは薄くなってはいた。
ただ、やはり業界の努力があってもゲームセンターのニッチ化は進んでいた。

当時TBSラジオ系列で放送されていた深夜ラジオ番組「ラジオはアメリカン」という番組がナムコ1社提供で、namcoのCMが流れていて、新製品や直営店の情報が聞けた。
番組内容自体はあまりゲームには関係なかったが、「おもしろカセットのコーナー」など視聴者投稿作品で盛り上がっていた。
 また、番組のイベントが全国で行われ、札幌で開催されたときに「源平討魔伝」などの作曲者「中潟さん」がゲストで来られていて、サインをもらったのも記憶に残っている。

 個人的にはnamcoの直営であった「キャロット」が好きだった。
 グッズの販売や一部では軽食の販売も行われていた。
 札幌だと「プレイタウン赤い風車」では生姜焼きなどの本格的なメニューも提供しており、ビリヤードやカラオケボックスも併設していた。
 「川沿キャロットハウス」に至ってはカレーなどの軽食のほかに、なんとお弁当の販売まで行っていた。
 実際数年ではあるが、namcoで前述の2店舗を含む数店舗に勤務して調理業務も行っていた。
 (勤務経験があるロケ:川沿、澄川キャロットハウス、プレイタウン赤い風車、五番館ナムコランド、西野ナムコランド、プレイシティキャロット琴似店)

この頃からゲームは更なるハードの高性能化などにより、発展していった。
家庭用やパソコンに移植され、人気が出たゲームも多い。

例を挙げると、Tehkan「スターフォース」(1984)、Konami「グラディウス」(1985)、namco「ドルアーガの塔」(1984)、CAPCOM「魔界村」(1995)などがある。
各プラットフォームに移植されたゲームは、ハードウェアの制約でスペックダウンこそしていたが、元々のゲームの面白さは損なわれていなかったのでヒットを記録した。
これにより、各メーカーはこぞって業務用からの移植をリリースすることになる。

そんな中、家庭では絶対に真似できないゲームが遂に登場することになる。
「SEGA体感シリーズ」の登場である。
ハングオン」(1985)、「スペースハリアー」(1985)、「アウトラン」(1986)などである。
これら体感ゲームも移植はされたが、筐体そのものが稼働するというものは真似しようがないため、業務用のアドバンデージは失われなかった。

これをきっかけにTAITO「ダライアス」(1986)といった、専用筐体のゲームも登場し始めた。
元々専用アップライト筐体でだったものが、元に戻ってきたわけである。

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4. ビデオゲーム成熟期 (1987〜1990)

ゲーム業界は風営法改正による混乱も沈静化し、ゲーム業界は更なる進化をしていった。
汎用筐体も画面が大型化し、テーブルではなくSEGA「エアロシティ」などに代表されるようなアップライト型に移行しつつあった。
 この頃が一番ゲーマー生活にどっぷり浸かっていた時期で札幌を中心に色んな店舗に通っていた。
 (ドメイン名でもある「MoAi」は主宰していたゲームサークルから取った名前で、後にBBSへその名前を引き継いで現在に至ってる)
 前述の通り。namcoで働いていたのもこの時期である。
 (元電気Grooveのメンバーであった砂原くんとも一時期一緒に働いていた)
 
 最終的にはプレイシティキャロット琴似店にいたんだが、当時住んでたアパートは「2号店」と言われて常連連中の溜り場になっていた。
 まぁ、確かに当時のコンシューマ機全部あったし、X68000もあって、更にテーブル筐体も置いてたからなぁ。
 んで、俺が漫画を古本屋で集めていて数千冊あったから、まさに今でいう漫画喫茶。
 
 酷い奴だと一ヶ月で居ない日が数日しかないとかいう訳分からない状態だった。
 布団まで確保されていたし、琴似の繁華街が近いので食べ物にも困らない。
 ある意味天国だよね。

まず、ゲームの「システム化」である。
従来のゲーム基板はゲームの入替において、改造が必要だったり、そもそも一枚ものだったりとあまりコスト感覚には乏しかった。
しかし、この頃から「システム基板」という共通プラットフォームによりROMの入替やメディアによる書換などによる導入が広まっていった。
それ以前にもDataEast「デコカセットシステム」やKonami「バブルシステム」などがあるにはあった。
しかしこれらは、カセットやバブルメモリという読込速度や安定性などに問題があるメディアであったため広まらなかった。

当時のシステム基板の代表としてはnamco「システムI(86)」「システムII」、SEGA「SYSTEM16」「SYSTEM24」、TAITO「F2 System」。
Konami「TWIN16」、IREM「M72」、CAPCOM「CPS-I」などがあった。

namco「システムI」の「ドラゴンスピリット」(1987)や「システムII」の「ワルキューレの伝説」(1989)。
SEGA「SYSTEM16」の「SDI」(1987)や「SYSTEM24」の「ゲイングランド」(1989)。
TAITO「F2 System」の「キャメルトライ」(1989)やKonami「TWIN16」の「グラディウスII」(1988)。
アイレム「M72」の「R-TYPE」(1987)、CAPCOM「CPS-I」の「ロストワールド」(1988)など名作も登場した。

特に変わったものといえばSEGA「SYSTEM24」だろう。
ROM交換だけではなく、3.5" FDDを併用したシステムであった。

そして、ゲーム業界を一変させた一大ムーブメントが1988年に起こった。
SEGA「テトリス」(1988)の登場である。
これ以降、一定数のファンがいる「パズルゲーム」ブームが来た。
小手先のテクニックが必要だった従来のゲームとは違い、ルールさえ覚えれば初心者でも遊べるゲームとして受け入れられた。
(もちろん家庭用ゲーム機の存在もある)

このブームはSEGA「コラムス」(1990)、「ぷよぷよ」(1992)と続いていくことになる。

また同時期にSEGA「UFOキャッチャー」に代表される景品機ブームが始まったのも大きい。
このとき、景品として「ぬいぐるみ」が登場した。
折しも世間では競馬ブームが到来して「オグリキャップ」などのスターホースたちが、ぬいぐるみとなってキャッチャー人気を後押しした。
F1もブームとなり、レーシングカーのぬいぐるみも登場していた。
当時キャッチャーのぬいぐるみを積んでいた車が結構あったくらいである。
キャッチャー=ぬいぐるみというイメージは今でも続いている。
(最近は景品も多様化しているが、メインはやはりぬいぐるみである)

これらのおかげで、それまで学生やサラリーマン中心だった客層が大きく変化したのである。
「暗い」イメージのゲームセンターが「ゲーセン」となり、一般にも受け入れられることになっていく。

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5. ビデオゲーム格闘期 (1991〜1995)

昭和の終焉、バブルの崩壊。
世の中は、新たな時代へと遷移しつつあった。
 個人的にも、ナムコを辞めて非メーカー系のゲーセンで店長やったり、業務用ゲーム機器を取り扱う会社に勤めていた時期である。
 (研修でセガ直営店に勤務したこともあったりする)

そんな1991年、その後現在まで続く定番となったものが登場する。
CAPCOM「ストリートファイターII」(1991)、通称「ストII(ツー)」である。

これ以前にも同社の「ファイナルファイト」(1989)やTechnos Japan「熱血硬派くにおくん」(1986)といったような格闘スタイルのゲームはあり、一定の人気はあった。
しかしストIIはこれまであまりなかった「対戦」格闘ゲームというジャンルだった。
レバーとボタン操作の組み合わせで個性ある必殺技を操って、コンピュータ相手だけではなく、プレイヤー同士が対戦できる画期的なシステムであった。
これにより、対戦格闘ゲームが1つのジャンルとして確立し、以降現在に至るまで業務用・家庭用問わずに人気となっている。

対戦格闘ゲームはゲーマーの存在を大きくクローズアップする結果ともなった。
それ以前はゲーム雑誌で全国のゲームセンターからハイスコアを集計するというコーナーで、各地のゲーマーたちが腕を競っていた。
 当時はまだネットなどのグローバルな双方向メディアがなかったため、ゲーマー同士の交流は限られていた。
 (「遠征」と称して交流するケースはあって、私も当時「ゲーメスト」の編集者だった人など各地のゲーマーたちと交流があった)

対戦格闘ゲームはゲーマー同士が対戦する大会として、ゲーマー個人が有名になっていくという、今でいう「eGame」のハシリとなった。
特にSEGA「バーチャファイター2」(1994)では全国大会が開催されるなど、話題になった。

対戦格闘ゲームの人気はどんどん高まっていった。
その最たるものがSNK「ネオジオ」により提供されたゲームである。
大規模容量のゲームカートリッジにより提供されるシステムで比較的簡単に安価なゲーム供給が可能となった。
これにより同社の「餓狼伝説」シリーズ、「サムライスピリッツ」シリーズ、「キングオブファイターズ」シリーズといった格闘ゲームに代表される作品が発売されていった。

しかしその反面として、ゲームのマンネリ化が顕著となってしまい、パズルゲームか格闘ゲームしかないというような状態になってしまった。
SNKはこれにより発展する機会を失ってしまい、最終的には倒産してしまった。
この流れはSNKだけに留まらず、Nichibutsu、DataEastやToaplanといった中堅メーカーがこの時期に多数破綻してしまっている。

ゲームの一般化からクイズゲームも多数登場した。
しかし、どれも「テトリス」「ストII」は超えられなかった。

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6. ビデオゲーム停滞期 (1996〜1999)

ゲーム業界では格闘ゲームブームが続く中、ゲーム業界に新たな潮流が生まれた。
 個人的には初めて北海道を出て、本州(某日本一暑い街)で暮らしていた時期である。
 namco「ナンジャタウン」は開業初日に行ってたりする。
 まぁ、色々あって北海道にまた戻ったのだが。

Konami「ビートマニア」(1997)に始まる音楽ゲームである。
同社の「ダンスダンスレボリューション」(1998)や「ギターフリークス」(1999)など派生が多く登場した。

今までの客層とは少し違う客層も取り込みつつ、家庭ではできないもの、という考え方であろう。
しかも「ユーロビート」などのクラブミュージックが使われていて「ナウでヤング」(その当時でも既に死語)に訴求効果があった。
そのため「バカウケ」(だから死語)して、ゲームセンターの入口近くに設置されることが多かった。
狙い通りこれらの音楽ゲームは人気となった。

この頃からゲーセンは従来のビデオゲーム中心というよりは体感ゲーム、メダルゲーム、プライズマシン(景品機)が中心に移っていった。
客層もかつての学生やサラリーマンではなく、家族連れやカップルなども目立つようになっていった。
業務用と家庭用のゲームにそれほど差がなくなってきており、かつてのようにゲーセンで遊ぶという選択肢が失われつつある時代になっていった。

倒産したToaplanの流れを汲んで、新たなシューティングゲーム「弾幕系」が確立しつつあったのもこの時期である。
これもある意味ニッチなプレイヤー層を狙い撃ちしたものである。

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7. ビデオゲーム新世代 (2000〜)

家庭用ゲーム機だけではなく、携帯電話がスマートフォンという新たなデバイスへ移行していった時代。
もはやゲームはゲーセンでもなく、ゲーム機でもないプラットフォームでも提供されるようになった。

誰しもが気軽にゲームを楽しめるようになり、ゲームはまさに一般的なコンテンツとなった。
だが、かつてのファミコンブームのようにゲームの粗製乱造が起こっているのも事実である。
あるゲームがヒットすれば皆それを真似していき、市場をお互いに奪い合った結果廃れてしまう。

かつて少年が百円玉を握りしめてワクワクしながら向かった、あのゲーセンはもうない。
だからこそ、語り継いでいかなかければならないのではないだろうか。

「ゲーム」という1つの歴史を。
最初の商用ゲームが登場してからおよそ半世紀。
ようやく、ゲームは誰しもが知る文化となった。

その歴史も語り継げる程、長く複雑なものになった。
人類の文化史に紡げる新たな1ページとなって。

そして、新たなる歴史を刻む「ゲーム」の誕生を待とうじゃないか。


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